d.lab Systems Design Lab

Chapter -5-

脳をインターネットに接続する

Internet of Brains

2020.04.26

ケンブリッジで見た神秘的な光景

2019年。ケンブリッジの春は遅い。5月というのに人々は厚手のコートを<はお>っている。

夕暮れになるとハーバード大学のキャンパスの美しさは一層際立ちます。新緑の芝生を歩く学生の姿がまばらになり、やがて学生寮から橙色<トウショク>の灯りが漏れてくる。暗闇迫るキャンパスに歴史の<とばり>が下ります。

この灯りの下で、人類が蓄えてきた学問が継承され、そして新たな知が生み出される。灯りに誘われるように、ここで学びたいという衝動に駆られました。老眼で本を読むのも一苦労なのに、留年を繰り返しながらも生涯学び続けることができたら人生はきっと豊かになるでしょう。

しかし、そんなことが許されたならばキャンパスは老人で溢れ出します。ああ、もう少し若くしてこの地を訪ねることがあったならば…そんな感傷に浸りました。

翌日はAIチップの研究打合せです。午前はMITに午後はハーバード大学に行きます。地下鉄レッドラインに乗れば、チャールズホテルの近くのハーバードスクエア駅からMITのメディアラボがあるケンドールスクエア駅まではほんの15分。しかし、その日はふと歩いてみたくなりました。

チャールズ川は見えません。映画『ソーシャル・ネットワーク』の中で見たレガッタのシーンを思い浮かべながら、そぞろ歩き出しました。

しかし予感は外れて、街角に面白いものは見つかりません。小一時間も歩くと疲れてしまい、ついにメイン通りとバッサー通りの交差点で立ち止まってしまいました。


そのとき、突然、神秘的な絵が私の目に飛び込んできました。

それは、窓ガラスが青く反射する近代的なビルの玄関ロビーに設置された大型ディスプレイに映し出されていました。ビルには“MITマクガヴァン脳研究所”と書かれています。

<ねじ>れた大木を<かたど>ったモニュメントを見上げながらビルに入り、柔らかいソファーに身体を沈めました。ロビーの奥にはセキュリティーゲートがあります。若い研究者たちが片手にスマホやコーヒーを持って慌しく出入りしています。

世界中から集まった秀才たち。瞳には英気と自信が満ち溢れています。世界最先端の研究をしている人たちの共通の雰囲気です。

100インチのディスプレイに研究を紹介するスライドショーが映っていました。


あっ、これだ!

私をここに惹きつけた神秘的な絵が映し出されました。

天体写真にも抽象絵画にも見えます。暗闇の中に虹色<ナナイロ>に輝く無数の縮れた糸が小宇宙を紡ぎ出しています。そこに向かって手前からまるで精子が隊列を組んで<まさ>に突入するかのようです。

『脳の新しい映像』というタイトルを見て、この図が脳の神経網であることを知りました。視点を3次元に自在に変えて観ることができる脳の設計図です。

「ボイデン研究室は脳細胞の内部のタンパク質やRNAを映し出す技術を開発した」。

そしてスライドが変わります。今度は青く光るプレパラートを手にした科学者が現れます。タイトルは「膨張顕微鏡法」。


脳をインターネットに接続するの参照図
図:写真撮影:McGovern Institute for Brain Research at MIT in 2017

膨張顕微鏡法とその逆の方法

膨張顕微鏡法?

細胞や組織を大きくすることができると言うのだろうか?不思議の国のアリス症候群?

「膨張顕微鏡」をスマホでググると、Nature ダイジェスト2015年 Vol. 12 No. 4に『脳を膨らませてナノスケールの細部を観察』という文献が見つかりました。

リード文を読む。「紙おむつの吸収体に利用される材料を使って脳組織を膨張させることにより、一般的な光学顕微鏡を使って、わずか60ナノメートルの特徴まで解像することができた。」

その詳しい方法は本文に書いてありました。最初に、脳組織の特定のタンパク質に蛍光分子タグを付けます。次に、アクリル酸塩モノマーを脳組織に浸透させて蛍光分子タグと結合させます。このモノマーの重合反応を開始させると、脳組織内でアクリル酸塩ポリマー(重合体)の網目状構造ができます。

脳組織のタンパク質を分解した後に、残ったアクリル酸塩ポリマーに水を加えます。すると、おむつのように水を吸って膨張し、網目状構造に結合している蛍光タグの間隔があらゆる方向に正確に広がっていきます。その結果、最初は光学顕微鏡では識別できないほど近接していた蛍光タグがはっきり分かれて見えるようになります。

つまり、脳組織のタンパク質の位置を紙おむつにコピーし、水を加えて膨張させた後に光学顕微鏡で観察したのです。その映像をコンピュータグラフィックスで色鮮やかな3次元の図に仕上げたのが目の前の虹色の絵でした。見事な可視化です。

スライドショーでエド・ボイデン教授は問います。「脳をもっと良く見たいなら、君はどうする?科学者を小さくするか、脳の組織を拡大するよね。」

もちろんボイデン教授は後者を選びました。


私なら科学者を小さくする!

ここから私の妄想が始まります。100ミクロンメートル四方のチップに100万個のイメージセンサを集積した小さな顕微鏡を作ります。一つのセンサの大きさは100ナノメートル四方です。

そのチップを脳組織の中に運ぶことができれば、至近距離で60ナノメートルの特徴を見分けることができないだろうか。たくさんのチップが捕らえた映像データを無線通信で集めて解析すれば、全体像を再構築できないだろうか。乱雑な妄想は果てしなく続き、時間も疲れも忘れてしまいました。

私は当時、国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)のACCELプロジェクトに取り組んでいました。当初はコンピュータの電力効率を改善することが研究のテーマでしたが、やがてAIブームが起こり、私もモバイル人工知能“eBrains”を作りたいと考えるようになりました。

極小チップを脳に埋め込めば、脳をインターネットに接続できる。だからモノのインターネットIoT(Internet of Things)の次は、脳のインターネットIoB(Internet of Brains)を実現できる。脳の次は細胞のインターネット、IoC(Internet of Cells)か。

いや、その前に、人に装着したセンサやアクチュエータを脳と繋ぐ、人のイントラネットが先決だろう。脳や身体に溶け込んだコンピュータは、人の感覚や免疫を拡張し、高齢者の社会生活を支援するだろう。

私もそんな夢物語を考えるようになっていました。


脳がインターネットにつながったら

脳とコンピュータはつながりが深い。

脳は社会を作り、心を生み出しました。人は自分の意図を知りそれを伝えるために言語と論理を獲得しました。

人はさらに認知能力を拡張する道具として数学を創りました。それはやがて脳に宿り、高度な抽象化によって身体をそぎ落とした果てに、脳から溢れ出しました。コンピュータの誕生です。

津田一郎博士が意識の普遍性を「心はすべて数学である」と表現したように、あるいは森田真生氏が『数学する身体』で描き出したように、抽象化の先に産み落とされたのがコンピュータであり人工知能です。

左右の脳を持つeBrainsを作ったら、人の脳と同様に、画像と音声が右脳で認識された後に、左脳の連合野で言葉に抽象化されるのでしょうか?

脳がインターネットに繋がったら、マット・リドレーが『繁栄』で述べるように、結びついている人口が多いほどイノベーションが起きる確率が高まり、アイデアの生殖が地球上を覆うのでしょうか?

そして、マービン・ミンスキー博士が唱えたように、エージェントの集合は『心の社会』を生み出すのでしょうか?言葉の先に意識が生まれ、芸術が生まれ、コンピュータは人と同じような進化を遂げるのでしょうか?

(それとも養老孟司先生に『バカ』と一笑に付されるのでしょうか?)